エンツォ・フェラーリを描いた映画「FERRARI」が公開されている。
車のフェラーリはもちろん知っている。F1でも深紅のフェラーリを何度も視た。創業者のエンツォ・フェラーリだってもちろん知ってるとも。と言いたいところだが、実はよく知らない。彼自身が元レーサーで呆れるほどの情熱でレースを愛し没頭したということは知っている。彼自身が没頭するレースをするために車を売っているのであって、そんなフェラーリの車を買う客はバカだと言ったとか言わなかったとかいう逸話を聞いたことくらいはある。いつもサングラスをした妙に威圧感のある御仁というイメージだ。
今回公開された映画「FERRARI」では、そんなエンツォの人生が描かれているともちろん期待して観にいったわけだ。そんな期待にすばらしく応えてくれた映画でありながら、なにか肩透かしされたような不思議な感覚を直後に持った。
エンツォの人生の後半を中心に半生が描かれて彼の人生を俯瞰して観れるものと勝手に前提を置いてしまっていたのだが、実際にははるかに短い期間を切り取ったものだ。彼の息子のディーノが亡くなった翌年あたりにフェラーリ社が経営難に陥り、当時イタリアで最も注目される公道レース「mille miglia」に社運をかけて挑むエンツォを、レース屋、経営者、夫、そして父としての多面的な角度からスクリーンに切り取っていくものだ。それぞれの角度から向けられる監督「マイケル・マン」の視線の先がエンツォが持つ彼自身のぶれないコアで交差していることが印象深い。どの角度から切り取っても、ぶれないエンツォがそこにいる。詳しくは映画を見ていただきたい。
映画では、エンツォの妻でありフェラーリ社の共同経営者であるラウラとエンツォとの関係を丁寧に荒々しく描いていく。彼らの間の大きな溝が描かれ、二人の関係の行方は破滅以外にないと思わされる。とは言え最後にはある種の理解というか合意に至るわけだが、コンセンサスのプロセスという意味では情緒的であるだけでなく合理的な部分も見られる。ラウラからはエンツォはこんなふうに見えていたのではなかろうか。
・父として→微妙
・夫として→最低
・共同経営者として→微妙だけどまあまあ
・レース屋として→エクセレント(ここまでやるんかい)
最後のコンセンサスはエンツォとラウラの取引といえるもので、共同経営者としてレース屋エンツォを合理的に認めて、合理的にフェラーリ社をサバイブさせてきたラウラだから、エンツォに受け入れがたい面があっても合意できたということではないか。
映画を見て肩透かしのように感じたのにはいくつか理由があると思う。ひとつは、この映画で描かれる時間軸が非常に短く1年足らずのものだということだ。エンツォの半生の俯瞰を期待すると当然違うわけだ。この後にFERRARIがF1を象徴する存在にまでなりスポーツカーの最高峰とまでなることや、多くのメディアを通じて華やかに写されるサングラスをしたエンツォの姿を思いながら受け手が咀嚼する必要があるのだろう。もうひとつは、エンツォだけではなくラウラも主役と捉えて咀嚼しなければ感じられにくい妙味が含まれるということだ。ラウラには物語の最初と最後で大きく変化した部分がある。その変化こそが二人をコンセンサスに至らせたものであり、ラウラのこのプロセスは映画の時間軸で完結している。ラウラに着目してみて観れば大きく印象が変わるのだろう。
エンツォ役のアダム・ドライバー、ラウラ役のペネロペ・クルスのどちらもすばらしい。実年齢よりもかなり年上のエンツォ役を演じきったアダム・ドライバーはもちろん最高だが、ペネロペの狂気じみたラウラの迫力が圧巻だった。
2回、3回と繰り返して観るほどに気付きがあるのだろう。もう一度観たときの自分は何を感じているだろうか。
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