決壊(平野啓一郎)

未分類

 平野啓一郎の「決壊」を読んだ。正確にはオーディオブックで聴いた。人間の奥底にある弱さ、人間社会が抱える脆さなどが映像を見ているかのように生々しく表現されており、物語の中で起きる出来事もとても重たい。このような作品は受け身で時間軸が進められていくオーディオブックで聴くほうが適しているのかもしれない。時間軸のコントロールが自分にある「読む」行為では、なかなか先に進めることができなかっただろう。

 ここからネタバレになる。

 東大卒で国会図書館に勤める主人公の崇の家族に起こる痛ましい事件によって、彼の周辺の人間や人間関係が壊れていく様が、彼自身や関係する人たちに対する社会の理不尽なふるまいを描きながら進んでいく。悪とは何であって何処に在るのか、人間のアイデンティティとは何であるのか、赦しとは何であって誰のためであるのか、これらの問いを投げかけ、社会の分断、メディアのあり方、国家権力のあり方、親族との関係、犯罪者と被害者の関係などの要素とともに、この痛ましい事件の渦の中に巻きませ、散りばめながら、壊れていく様を容赦なく読者に示していく。示すというよりも読者に問い続けるようだ。

 痛ましい事件とは、崇の実の弟が残忍な方法で殺されるものである。警察は崇を容疑者として拘留し自白を迫り、崇は追い詰められていく。追い詰めれていくのは崇だけではなく、登場するあらゆる人にまで及ぶ。崇の父は鬱病で、その妻たる崇の母はその看護と事件による息子の喪失の中で壊れていく。崇の義理の妹(殺された弟の妻)は崇を犯人と疑う。また、犯人の一人である中学生の家族も壊れていく。そして、そんな渦中で辛うじて自身を保とうとしていた崇自身も物語の終盤で決壊していく。

 事件の主犯は自らを「悪魔」と名乗る男である。「悪魔」が行ったことは絶対に許されない犯罪であるが、彼の言葉は人の心を抉る。とくに印象的なのは悪魔の存在についての彼の言葉だ。彼によると、人間は自分自身や自分たちの社会の内に抱える危険や不都合なものに名前を付けて、自分たちの外の存在として見なさなければ耐えられないのであって、人間はその不都合な自分自身の一部に悪魔と名前を付けて忌み嫌うというのである。つまり、自分たちの社会システムの仕様として実装された不都合を「仕様の誤り」ではなく「バグ」として扱い、システムを根本的に見直すことから目を背け、ひとつのバグとして糾弾して矮小化して片付けようとしているのだと。不完全なシステムに適合して生きる人間と適合できない人間が当然のように生じる。システムに適合した人々はこれらによって生じる不都合を個別のバグとして対処する強い動機を持ち、適合できない人々や適合しようとしない人々を「自分たち以外」と見なすのだと。まさに分断である。

 物体でも抽象概念でも、人間が何かを認識するときに、「それ自体」の特徴からではなく、「それでないもの」の特徴を理解することで「それ自体」が認識されるのだという話を聞いたことがある。そうだとしたら人間の認識能力の根源に分断を作る機能が備わってしまっているのかもしれない。「悪魔」は誰の中にでも、あなたの中にも存在するもので、私(悪魔)はあなた自身であり、あなたは私(悪魔)だと。物語の中で悪魔はそう言う。分断とは自分の内にある不都合を自分ではない誰かに投影して外に追い出すことで自己を保つという人間に備わった機能が用いられた結果として起きることなのだろうか。仮に不幸にもそうだとしても、これは人間の行動や思考を決定づける唯一の機能ではないはずで、これを抑制する機能も備わっているはずである。著者の平野啓一郎による「分人」の考え方によれば、一人の人間の内面は多層的に構成され、対面する相手や環境によって表出される人格は一定ではなく、表出されるそれぞれの人格を「分人」と呼ぶのだが、あらゆる人間の中に悪魔がいるとしても、そうではない分人も当然にいるのであって、悪魔的ではない分人がそこにいる人々から表出される社会やコミュニティが形成されることが求められるのだろう。

 「決壊」を聴き終えた後の率直な感想は、「救いがない」というものだった。ただ、終盤で「赦し」について語られている。赦しは罪を犯した者のためではなく、被害者のために必要なものだという考えが示されている。悪魔が誰もが内在する普遍的なものであるとするならば、悪魔を「赦す」ことは自分を赦すことでもあると解釈できる。物語の最後で崇は壊れてしまったが、物語に続きがあったとしたなら、誰もが持つ「赦し」の分人がこの救いのなさを和らげる世界観であってほしいと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました